茶臼岳山麓、那須湯本温泉の上流の谷筋には、その一帯は硫黄ガスが漂い、大小の石が散らばる一角があります。その中でもひときわ大きく、しめ縄を結われた巨石が、「殺生石」です。
「殺生石」は、九尾の狐伝説をはじめ、数々の伝説を今に残し、また文人も多く訪れており、平成26年3月に国指定「奥の細道の名勝地」に指定されました。
「殺生石」の周辺は、那須温泉神社や千体地蔵などのスポットをつなぐ散策用の木道が整備され、気軽に散策することができます。
昔、美しい女性の姿に化身した金毛九尾の妖狐がいました。この妖狐はインドや中国で悪事を働こうとして失敗し、日本に逃げてきました。
狐は玉藻の前という名の優雅な宮廷婦人を装い、鳥羽上皇(1103~1156)の宮廷に仕えました。狐は上皇の寵愛を得ておりましたが、陰陽師にその正体を明らかにされてしまったため、那須に逃げ込みました。長い戦いの後、上皇の軍は狐を討伐しましたが、狐は巨石に姿を変え、邪気と有害なガスを出し続けました。
数世紀後、那須にやって来た僧侶の源翁(げんのう)和尚(1329~1400)が、石の呪いを解こうと、石に大きな金槌を振りおろし、3つに打ち砕きました。石片の1つは会津に、もう1つは備前に飛んで、最後の1つは那須に残りました。それ以来、狐の魂を鎮めるために、毎年5月に御神火祭と呼ばれる夜の儀式が行われています。たいまつを持った参加者たちが那須温泉神社から殺生石へと向かい、金毛の狐の面と白装束をまとった太鼓奏者が、焚き火の前で太鼓を叩きます。
九尾の狐の物語は、能楽や歌舞伎でも上演され、有名になっています。
1336年、教傅という僧侶がおり、現在の福島県蓮華寺の住職を務めていました。教傅は友人と一緒に那須温泉に行くことにしました。出発の朝、母親が教傅の旅支度をしないで朝食を作っていることに腹を立てた教傅は、母親を罵り、お膳を蹴り飛ばして出て行ってしまいました。那須での滞在中、教傅一行は殺生石を見に行くと、雷鳴が天地を揺るがし、大地から火災熱湯が噴出しました。連れの友人は逃げおおせましたが、母親に酷い仕打ちをしたことで天罰を受けた教傅は、火の海に落ちて亡くなったといいます。
教傅のような親不孝をしないように願い、1720年に最初の教傅地蔵像(一番後ろ)が建てられ、人々が訪れるようになった。1975年には新しい像が建てられ、2つの小さな地蔵が隣り合っています。5月下旬に教傅の追悼式が行われています。
教傅地蔵の周囲には、千体地蔵が奉納されています。一つ一つの像は、旅先での事故や自然災害(教傅に降りかかった災難のような)に遭わないようにと願う、寄進者の祈りを表しています。最初の像は1978年に設置され、その数は年々奉納により増えています。地蔵像は、それぞれに異なる特徴と印相があり、顔は教傅の旧寺である蓮華寺に向けられています。
殺生石周辺からは現在も温泉成分を含んだ高温の硫黄ガスが出ていますが、江戸時代(1603〜1868)には、ここの湯畑で、噴出口に茅をかぶせることで、効率よく湯の花を採取し、農民は米の代わりに「湯の花」を年貢として払っていました。
「なすゆぜんじんじゃ」と読みます。那須地方に存在する80社の総社であり、那須与一が屋島の合戦で矢を射貫き、心願成就の御礼の気持ちを込めて奉納した鳥居が現存します。
また、境内には「生きる」と命名された樹齢800年のミズナラの大樹、松尾芭蕉の句碑など、歴史や文化に触れられるみどころが多くあります。
那須高原ビジターセンターから行ける観光スポットやイベント情報など、各種パンフレットご用意しております。ご自由にお持ち帰り下さい。
※下記は一例です。時期により内容等異なる場合がございますので、ご了承下さい。