豊かな自然が残るこの御用邸の森の動植物について、正確な記録を残し、その後の経年変化などを把握することが望ましいとの上皇陛下のお考えを受けて、平成9年度から5か年にわたって、栃木県立博物館による調査が行われました。その結果、豊かで多様な自然環境が残されており、ブナの自然林などが広がるほか、希少種をはじめ多くの動植物が生息・生育していることが確認されました。 そして、その豊かな自然を維持しつつ、国民が自然に直接ふれあえる場として活用してはどうかとの上皇陛下のお考えを受けて、上皇陛下御在位20年という節目の機会に、御用邸用地のおよそ半分にあたる約560haが宮内庁から環境省へ移管されました。その後、自然環境のモニタリング調査が行われるとともに、フィールドセンターや歩道などの整備が進められ、平成23年5月22日に日光国立公園「那須平成の森」として一般開放しました。
近年の天皇方は、自然と深いつながりをお持ちです。
昭和天皇は、変形菌、海産無セキツイ動物、植物に関心をお持ちであり、那須の植物に関する本を4冊出版されており、収集された6万点の標本は、東京の国立科学博物館に収蔵されています。また、1962年、栃木県の野鳥繁殖事業の一環として、孵化したキジを那須の山中に初めてご放鳥されました。従者の「雑草」という発言に対し「雑草という名前の植物はない」と窘められ、自然に対する敬愛の念が感じ取れるご発言です。上皇陛下はハゼ類の分類に科学的関心をお持ちで、天皇陛下は、たびたび那須の山々で登山を楽しまれ、水政策や水質保全に熱心に取り組まれています。
昔、美しい女性の姿に化身した金毛九尾の妖狐がいました。この妖狐はインドや中国で悪事を働こうとして失敗し、日本に逃げてきました。
狐は玉藻の前という名の優雅な宮廷婦人を装い、鳥羽上皇(1103~1156)の宮廷に仕えました。狐は上皇の寵愛を得ておりましたが、陰陽師にその正体を明らかにされてしまったため、那須に逃げ込みました。長い戦いの後、上皇の軍は狐を討伐しましたが、狐は巨石に姿を変え、邪気と有害なガスを出し続けました。
数世紀後、那須にやって来た僧侶の源翁(げんのう)和尚(1329~1400)が、石の呪いを解こうと、石に大きな金槌を振りおろし、3つに打ち砕きました。石片の1つは会津に、もう1つは備前に飛んで、最後の1つは那須に残りました。それ以来、狐の魂を鎮めるために、毎年5月に御神火祭と呼ばれる夜の儀式が行われています。たいまつを持った参加者たちが那須温泉神社から殺生石へと向かい、金毛の狐の面と白装束をまとった太鼓奏者が、焚き火の前で太鼓を叩きます。
九尾の狐の物語は、能楽や歌舞伎でも上演され、有名になっています。
1336年、教傅という僧侶がおり、現在の福島県蓮華寺の住職を務めていました。教傅は友人と一緒に那須温泉に行くことにしました。出発の朝、母親が教傅の旅支度をしないで朝食を作っていることに腹を立てた教傅は、母親を罵り、お膳を蹴り飛ばして出て行ってしまいました。那須での滞在中、教傅一行は殺生石を見に行くと、雷鳴が天地を揺るがし、大地から火災熱湯が噴出しました。連れの友人は逃げおおせましたが、母親に酷い仕打ちをしたことで天罰を受けた教傅は、火の海に落ちて亡くなったといいます。
教傅のような親不孝をしないように願い、1720年に最初の教傅地蔵像(一番後ろ)が建てられ、人々が訪れるようになった。1975年には新しい像が建てられ、2つの小さな地蔵が隣り合っています。5月下旬に教傅の追悼式が行われています。
教傅地蔵の周囲には、千体地蔵が奉納されています。一つ一つの像は、旅先での事故や自然災害(教傅に降りかかった災難のような)に遭わないようにと願う、寄進者の祈りを表しています。最初の像は1978年に設置され、その数は年々奉納により増えています。地蔵像は、それぞれに異なる特徴と印相があり、顔は教傅の旧寺である蓮華寺に向けられています。
殺生石周辺からは現在も温泉成分を含んだ高温の硫黄ガスが出ていますが、江戸時代(1603〜1868)には、ここの湯畑で、噴出口に茅をかぶせることで、効率よく湯の花を採取し、農民は米の代わりに「湯の花」を年貢として払っていました。